旅馬の舞台裏

日本一の山「天保山」アタック

天保山渡船で束の間の船旅を楽しんだ後、日本一の山「天保山」の登頂に挑戦しました。

海遊館にある大観覧車を見上げ、道中の無事を祈り、天保山の登山口である天保山公園の入り口に立ちます。

和休を待つのは、最初の関門「コンクリの洗濯板」です。

35度を超える気温、まるで水の中にいるような湿度。汗が乾いていかないので体の温度がどんどん上昇。

しんどい一歩一歩を踏み出しぜーはーと息を切らし、和休は無事「コンクリの洗濯板」をクリア。

ホッとする間もなく、第二の関門「もしものときの壁」が立ちはだかります。

「もしものときの壁」には、先人が命を賭して描いた浮世絵が描かれています。

浪速天保山風景(歌川貞升 画)

天保山は、当時生駒、金剛、比叡などの山々や、四国、淡路島など四方の眺望に恵まれた景勝の地でした。松や桜の木を植え、掛茶屋・見晴堂などもでき、庶民憩いの場として大いに賑わいました。

「浪速天保山風景」は、パノラマ風にその賑わいを描いたもので、天保山で遊ぶ人々の様子など細かく描かれ、休憩所や、石垣で囲まれた船泊まりなどもよく分かります

かつてのにぎわいを目の前の景色に重ね、一息つきます。

さあ、先は長いです。どんどん進みましょう。


テクテクテクテクテクテクテクテクと歩き、また階段が現れました。

写真には写っていませんが、右手側には小高い丘があり上には展望台のようなものが備えられています。たぶんあそこが山頂だろうと思い、階段を登ります。

登った先には、碑がありました。「明治天皇観艦之所」とあります。

1868(明治元)年 明治天皇の大阪行幸と第1回観艦式

江戸幕府が倒れ、1868(慶応4)年、最後の将軍徳川慶喜天保山から敗走すると、明治天皇自らが軍を率いて大阪に来られ、3月26日天保山台場から各藩の軍艦をご覧になり、これが日本で最初の観艦式となりました。このとき、天皇はおよそ500年ぶりに京都を離れたのでした。

現在、天保山にはこの時の記念碑「明治天皇観艦之所碑」が立っています。

大阪市港区のホームページより引用

碑の周りでは、この日本一の山周辺に住んでおられると思しき人々がゴルフクラブのパターような珍しい道具をもち、カラフルなボールを転がして競うゲームに興じておられました。

なかでもその集団の長老と思しき方は、和休のじいちゃんが愛用していた携帯ラジオのようなものを腰に下げています。

一般的に山の上は電波を受信するのに適した場所であり、天保山のような日本一の山であれば、そのスジの方にとっては有名な場所なのかもしれません。

おそらく高性能な受信機だと思うのでうすが、相当遠くの局を受信しているようで、受信機が発する内容は聞き取りにくく、でもなにやらリスナーへプレゼントを案内しているようにも聞こえてきます。

どうやら極度の疲労と異常な気温、ぬるい空気で幻聴が出てきたかもしれません。また、「あのおっちゃん、もうすこしちゃんと周波数をあわせたらいいのに」、とくだらない考えが頭をぐるぐる廻りだしました。

この状況では、和休の体力はあまり長く持たないかもしれません。

みだりにペースをあげることは危険ですが、和休のタブレットに映し出されているGoogleMapは、山頂に近いところにいることを教えてくれています。

「あの小高い丘の上へ」と思いながら碑を過ぎると、なにやら看板が設置されています。

そこには、「日本一低い山天保山」の文字がありました!!

なんと、ここが山頂だったのです。偉大な先人は、粋な看板を設置してくれたものです。

永年の風雪に耐え、和休が訪れるのを待っていてくれました。

感動をかみしめながら、天保山二等三角点の側に立ちました。残念なことに急な思い付きで登頂を始めてしまったため、国旗の持ち合わせがありません。

山頂から遥か彼方の天保山船場を眺めるの図

山頂からの風景を心に刻みつけて、下山します。

ところが、山の天気は変わりやすく、ポツポツと雨が降ってきたではありませんか。傘もないこの装備では、「天保山山岳救助隊」に迷惑をかけてしまいます。横にあった小高い丘への登頂を断念し、急いで下山することにしました。

※この物語はフィクションです。和休の思いつきで書いたので、でたらめ情報がてんこ盛りです。

ウィキペディアの記事『天保山

2014年(平成26年)4月9日国土地理院による調査により標高3mの山、日和山 (仙台市)の認定により、2番目に低い山となった。

ウィキペディアから引用

日本一の山「天保山」アタック おしまい